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歴史

昔の山林

昔の山林 昔の山林

昔の山林はナラ、シデ、クリ、ハンノキ、カエデ、カシなどの広葉樹とツガ、ヒノキ、モミ、アカマツなどの針葉樹が混在する暖帯落葉樹林でおおわれていた。現在見られる花粉症の原因ともなっている杉は、もともとは当地方には自生していなかったもので植林によって移入した外来種だったようだ。このような他地方からの杉移入が同時に育成林業の始まりと考えて良いであろう。当時は秋川林とは言われずに青梅林と大まかに区切って言われていた。

筏流し

筏流し 筏流し

江戸幕府が開かれるに至って江戸は急激に膨張し、都市化していった。それに伴って木材利用の需要が続いた。木材利用に当たり、運搬する方法を河川を使い木材を筏にして運搬する方法が行われたのである。この秋川流域でも筏での運搬は盛んであったが、この筏の起源は古いものであるとされており、関東地方では戦国時代、後北条氏が領国の津久井地方から、相模川を利用して、木材、炭、穀物等を小田原へ運ばせたと言われている。古い時代における秋川谷の林業に関する資料がほとんど無いため、秋川の筏ながしがいつ頃始められたかは明らかでないが、前途のように、当初は江戸商人によって開発されたのではないかと思われる。(後半頁の国分寺建設の頁に関連記事を記載)
筏乗りこの筏流しは初め、「手山伐り」といって、自分持ちの山林の木を伐り、自分で筏に組んで多摩川をくだり、問屋に売却したもののようであり、次第に資力のある者が、他人持ちの山林を買って、筏で出材する「筏師」と言う地元木材業者が出現するようになった。この筏師は筏に乗って仕事をする人と勘違いされている事が多い。実は筏に関係した職人は2つに分かれていた。以下に説明する。
筏組 土場筏師…木材を扱う元締め。木材業者を意味する
筏乗り…実際に筏に乗り運搬をする職人。筏師に雇われている。上記に記載したように、筏師は木材業を営む経営者敵な存在で、それに従事するのが「筏乗り」や「乗り子」などと呼ばれていた。

筏流し 筏流し

ここで少し当時の筏流しの方法について記載しておこう。筏乗りの修行は十八、十九歳から始め、一年か一年半ぐらい先輩と同乗して見習い、二年ぐらいで一人前になる。そして六十歳ぐらいになると大抵引退したらしい。
元締めの筏師に雇われた筏乗りは、杣角(そまかく)や丸太を筏に組み、これに乗って木材問屋か、筏宿へ荷物を引き渡すまでの労働に従事した。※杣角(そまかく)とは丸太を斧で荒削りした物
筏に乗る時には、筏乗りの背中に元締めの印を大きく染めた印ばんてんを着てそろって出かけたので、遠くからでもわかるような目印となった。しかし筏を運んでいる途中で、橋や堤防を壊すこともあったので、筏乗りにとっては目印は邪魔になったので、途中で印ばんてんを裏返しに着るのが普通であったらしい。

筏組は切り出してすぐには出来なかった。岩場が多く川幅の狭い上流の川では筏組が出来ない為まずはそのまま流し川幅の広い地域の場所で筏組をおこなった。木材をそのまま流す事を「管(くだ)流し」筏組をする場所を「土場」と言った。このように仕事の配分がきちんとされており、場所によって従事する人も決まっていて組織化されていたようだ。

城建築で禿山に

城建築で禿山に 城建築で禿山に

前項目でも記載したが、江戸幕府が開かれるに至って江戸は急激に膨張し、都市化していった。それに伴って木材利用の需要が広がり建築土木用材としての木材の大量需要が続いた。慶長十年(1605)前後に始まって、完成までに二十年を要したといわれる「江戸城」をはじめ、各大名の家屋敷、武家や町家の建築ブームは、数十年は続いたであろう。十七世紀に始まるこうした大量の木材需要は、その後も徳川三百年を通して拡大しつづけた江戸の市街地づくりと、繰り返された大火による再建築事業によって、決して停滞することはなかった。

城建築で禿山に 城建築で禿山に

このような江戸の過大な需要を満たすための木材供給は、当初、関東諸国を初め東海及び中部山岳地帯の採取可能な天然林が利用された。その結果「天下の山林の約八割は取りつくされてしまったほどの森林荒廃を招いた」とある。これは有名な話しで、当時城建築の為に大量伐採された山が禿山になってしまったのである。秋川流域でも同様だったではないかと思われる。現在の山を見ても分かるが、殆どが杉山である。これは天然林を採りつくしてしまい、これでは生活の糧がなくなってしまうと言う事から杉なのどの植林がはじまったらしく、最初は下級畑に杉畑や檜畑が作られたと言われている。※現在の山は近代の植林政策により過密になっている。
人工林はいつ頃からはじまったのかは定かでないが、近隣地域では安永十年に杉四百本が売られたとある。下記に江戸への木材流通に伴い、林業が盛んになったおかげで村が栄えたという歌が残っているので紹介したい。

城お江戸が焼けて 山栄ゆ 杉丸太 ヤレソレ
もみ 栗 角の値のよさ
やれ もみ 栗 角の値のよさ
あれみよ雲が江戸へとぶ 雲にのりヤレソレ
我が身も江戸へ江戸へと
やれ 我が身も江戸へ江戸へと
※江戸が焼けてとは「江戸が開けて」と言う意味

このように江戸があって自分たちの生活があると言う当時の人々の心意気がよく表れている。徳川幕府の成立と共に、多摩一帯の山林は幕府用材としての備林となり、木材販売の一大ブームを引き起こす事になる。木材輸送費の安価な河川を利用出来る秋川、多摩川は業者にとって良い搬入先で購入を求めて来た。もちろん木材輸送の立役者は全項目で紹介した筏師で、需要と共に筏師「元締め」が生まれてきたのである。

武蔵国分寺建築

武蔵国分寺建築 武蔵国分寺建築

武蔵国分寺建築は江戸時代より前(757~765)だが、なぜ項目を下に持ってきたかは、武蔵国分寺建築の木材利用などの詳しい文章が残っていないのと、想像の域を越えない為だ。この項目では実録ではなく、実録を含めた歴史ロマンとしての記載に留めたい。以下に記載する。有史時代に入ると、水田耕作の肥料としても森が使われるようになった。落ち葉や草木の若芽・若葉を刈り取り、田の中に踏み込んで腐らせる「刈敷」がそれだ。風土記には、松脂、榧子(かやのみ)など様々な草木が薬用に使われていたことが記されており、人々の知恵による森活用の幅が広がって来たことがわかる。

その一方で、建築用の木材需要増加や水田開拓のために森林乱伐が進んだ。日本書紀によると、天武天皇が、飛鳥川上流の畿内の草木採取と畿内山野の伐木を禁止する勅を発令(676年)。これは、森林伐採禁止令の最古の記録とされている。工業的な需要としては、瀬戸内海地方で「製塩」燃料として森の木が大量に使われていた。天日で濃縮した海水を煮詰めて塩をとるために必要な蒔。その生産を目的とする山林は「塩山」「塩木山」と呼ばれ、奈良時代に東大寺が560町歩(約555ha)もの広大な塩山を所有していたという記録がある。同様に、中国山地では「製鉄」のための燃料としても大々的な伐採が行われていたよだ。

7重塔平城京、平安京の建設、寺社仏閣の建築ブームなども相まって、800年代までには畿内の森林の相当部分が失われ、600年~850年は日本の森林が荒廃した第一期とも言われている。武蔵国分寺建築は周囲の地域に多大な影響を及ぼしたに違いない。大きな礎石だけでも500を超えると言われているので周囲に与えた影響については計り知れない。
もちろん建築には木材が使用されるが、いったい武蔵国分寺建設という国家プロジェクトで使われた木材はどこからやって来たのか。
周辺、あるいは遠方より取り寄せたと言う事も考えられるが、やはり源流から多摩川を使い輸送されたのではないかとも考えられる。陸送したにせよなるべく近い場所から運ぶのが道理であろう。

当時あったとされている七重塔は高さ60メートルはある大きな塔であった。東寺〔教王護国時〕(京都府)にある五重塔54.8mなので七重塔としては小さめであったかもしれないが、法隆寺の五重塔とおなじように心柱が使われているとすれば、地域で言う御神木のような大木だったであろうと推測できる。他に門や巨大な建物を建築するにはやはり巨大な木が必要だ。あきる野や檜原などの奥深い山には御神木級の大きな木が何本もあったと言われている。このような木は巨大建造物に使われた可能性もあり、現在では残っていない。

ここで少し多摩産材の事に触れたい。多摩産材を使用した家は地域の風土に合い長持ちする家となる。昔はこのように地の物を使えば長持ちするというのは職人の間では当たり前の事だったのかもしれない。外材などが入り乱れる現在では定説ではないが、前に名前を出した法隆寺の五重塔に使われている木材も地元の物をつかっているのではないかと思われる。

法隆寺何故法隆寺五重塔は木造建築なのに1300年ももつのか?
これは一時話題になったと思いますが1300年と言うのは驚異的な数字である。なぜなら修復工事にあたった人が言うには「法隆寺の心柱は樹齢2千年以上、直径2.5mのヒノキの巨木を4つ割りにして使っている」とあるが樹齢と建築後の年数を合わせると、使われている木は生まれてから3千300年、切られてからは1300年も経っているのである。

この事からも、使われている木材は地域で育った木材を使っているだろうと推測できるのではないだろうか。この辺りは推測でしかないが他の地域から持ってきた木材であればこんなにも長い間もつものなのか疑問でもあるが、もしくは古代の職人の計り知れない技術のたまものなのか。いろいろ考えられるが、木材だけで見ても歴史ロマンはつきない。

民話に登場する巨木

国分寺建築でも記載した御神木だが、秋川流域の民話にも大きな木が登場する。民話とは事実を元に脚色された物語だが、話の中には脚色された話の他に真実がかくされている。古老から聞いた話しでは、昔は東京方面から五日市地区の方を見ると、今で言う東京タワーのように高く目立っている大きな木を見ることが出来たと言う。昔は建物が少なく見渡しもよかった為見えたと言う事もあると思うが、このように秋川流域では巨木が複数存在していた事がわかる。現在でもあまり巨木になり得ないような木が巨木として地蔵院に存在する。地蔵院にあるカゴノキは樹高22m、幹周4.0mとクスノキ科の常緑樹で北限に近い関東内陸部では巨樹は少ない。関東内陸部のカゴノキの中では巨樹で、東京都では最も大きなものだ。秋川流域の山林では、今では目にする事のないような巨木が存在し、伝説になるような木は町中、あるいは神社などに生えていたのだろう。巨木に関連した民話が残っている。下記に紹介する。

かやの木の精
天正十八年(1590)八月、徳川家康は関東に入り、前からあった江戸城に住む事にしました。家康は、城をもう少し大きくしようとして、建築に必要な木材を新しく領国にした関東の村々から集める事にしました。城の建築には太い大きな木がいるので、材木を集める係の役人は村々を回って大木を捜しました。そのころ、二宮の二宮明神社鏡内には、かやの大木がありました。この木が回ってきた役人の目にとまり、村の人は役人から「このかやを城の建築に使う。江戸まで差し出すように」
と申しわたされました。村では仕方なく村役人はじめ多くの人が出てかやを切り倒しました。それでは運ぼうということになって何人かが、かやの木に縄をかけて動かそうとしました。ところが、どうしたわけか動きません。引く人数をふやしてもかやの木は動きません。縄を引いている人たちは、これだけの人がかかわてちるのに、少しも動かないのは変だ。と言い出しました。村役人も「皆が言う事はもっともだ。これはただ事ではない。うかかい(霊能者)にみてもらおう」と言ってうかがいを呼び、かやの木が動かないのはどうしたわけかうかがってもらいました。うかがいは、かやの木を見つめていましたが、やがて「かやの木の精が、神主の家で働いている女に思いを寄せているので、別れを惜しんで動こうとしない。女が来て引かなければ動かないでしょう。」と言いました。事の次第に驚いた村役人は、急いで神主の家に人をやり、女に来てもらい、女にうかかいの言ったことを詳しく語って聞かせました。女は承知してかやの木に近寄り、別れの言葉を言ってから縄を一本かけて引きますと、難なく動きました。人々は、あまりの不思議さにただただ驚き入るばかりでした。現在鏡内にあるかやの木は、元の根から生えたもので三代目にあたります。

「秋川市教育委員会発行 秋川昔物語より」
この中で分かるのは、大勢で引いても動かないようなかやの木の巨木があったと言う事です。
江戸城増築の為に倒されたのかは分かりませんが、当時巨木は人々にとってより身近な存在として高々とそびえていたに違いありません。
今では伐採や拡張工事の為無くなってしまった巨木ですが、現在まで残っていれば流域を代表するような観光名所になった事でしょう。木材の歴史について記載してまいりましたが、昔は使われすぎて森林の荒廃が起こり、現在は使われない事により山の管理が行き届かず荒れています。昔は天然林、現在は人工林の差はあるとはいえ、適度に使い、そして保全して行く事は、現在の我々が出来る最善の方法と言えます。これから家を建てる方、長くもつ建材を探している方も是非多摩産材を使用して、地元木材の良さを体感してください。

 

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